インテル 〜
2002年 W杯への天地を求めて
 


 


 1998年7月28日 正午
 ミラノのインテル・ミランの事務所で正式に移籍
 その後、約700人が待つ事務所前のバルコニーでインテルの10番をひろうする 
 移籍金36億リラ
 8月12日
 UEFAチャンピオンズ・リーグ予備戦 インテルVSスコント・リガ( リトアニア )で
  ( 4−0 ) 1ゴール・3アシストの大活躍
 9月13日
 '98-99シーズン 第1節 カリアリVSインテル バッジョ・インテル・デヴュー戦
 先発出場・後半途中で交代
 ペルージャVSユヴェントス戦 中田英寿 テヴュー戦 2ゴール・セリエA
 日本人2人目
 11月25日
 UEFAチャンピオンズ・リーグ - グループ・リーグ第5戦 2得点する 
 インテルVSレアル・マドリッド (スペイン) ( 3-1 )
 後半68分から交代出場 ( 1-1 ) 逆転のゴールさらに芸術的な3点目の
 ゴールとともに素晴らしいゴールを決めチームを決勝トーナメントへ進める
 12月20日
 セリエA 第14節 インテルVS A.Sローマ バッジョ途中出場から87分に
 インテル初ゴール
 3月17日 - 32歳
 UEFAチャンピオンズ・リーグ準々決勝 第2戦 ( 1-1 )
 マンチェスター・ユナイテッドVSインテル 第1戦 ( 2-0 ) との合計 ( 3-1 ) で
 敗退
 10月9日
 '99Jリーグ・ドリームマッチに出場のため夫人と共に3度目の来日
 10月10日
 池田名誉会長出席の創価学園記念集会に夫妻で参加
 東京校にアズーリの10番を関西校にインテルの10番のユニホームを
 「尊敬する若き皆さんに友情を込めて」との言葉と共に贈る
 バッジョ選手に「アメリカ創価大学栄誉賞」が
 夫人に「創価女子短期大学栄誉賞」が贈られた

 この日バッジョ選手は自らの人生をこう語った「私の人生の貴重は『情熱』でした
 不可能だと思う壁でも情熱で乗り越えてきました。 
 夢を実現するために私は情熱で進んできました。 
 情熱はすべてを動かします。 すごい『力』なのです」と

 集会終了後、創価学園の小・中・高・創価大学のサッカー部員との
 交換会へ出席
 学園生からバッジョ選手に
 「創価学園友誼之証」と同選手の名前の入った創価学園
 のユニホーム等が手渡された
 そして、再びバッジョ選手は「21世紀の勝利のゴールを決める鍵は
 『心』です
 すべてに真心を込めて行動することです
 誠実に生きることです
 晴れ晴れとした心と『断じて勝つ』という執念で前進を続ければ
 必ず勝利のゴールは決まります」と学園生に語った。 
 バッジョ選手は池田名誉会長にアズーリの10番と自らのビデオとカード
 インテルのペナントとガラス工芸の飾り皿を贈呈した
 10月11日
 Jリーグ - ドリーム・マッチ
 JAPAN DREAMS VS WORLD DREAMS ( 3-1 ) に
 ワールド・ドリームの一員として出場
 前半11分と42分にゴールを決めMVPに輝いた
 バッジョは試合のハーフタイムに創価小学生の代表15名と記念撮影
 試合後のTVインタヴューでバッジョは
 「ささやかな成果ですが、この2得点を私の師匠である
 池田先生に捧げたい」と生放送で語った
 そして当日試合で着たユニホームにも
 同じメッセージを書き池田名誉会長のもとに届けた。
 今回の来日のインタヴュー

 Q.「人生の勝利とは何だと思われますか? (引退後もふくめて)」
 
 バッジョ
 「幸せになることです
 人生で一番大切なのは決してスターとして生きている時間ではない
 子供の頃は穏やかな人々に囲まれた純粋な時代があった
 一度スターになれば周囲は純粋な人ばかりではない
 また、スーパースターである時間は短い
 私の本当の勝負はスーパースターを終わった後に始まると思っています
 自分の中に刻んだものが、そこから生きていくはずです」
 
 Q.「日本には、池田名誉会長を評価しようとしないむきがありますが」

 バッジョ
 「このことは自分 (B) も含めみんなが考えるべき点なんです
 先生は世界で大変に愛されている
 世界の平和のみならず日本にとっても本当に闘っていらっしゃる
 日本とロシア、中国、韓国への信頼の扉は先生が開かれた
 大変に勇気ある人だという一点でも日本人は先生を尊敬すべきだ
 池田先生が世界でどれほど評価されているか
 日本人は知らない、知りたがらないのかもしれない
 普通ならわかるはずです。 また偉大な人物だから敵も多いのです」
 11月18日
 北イタリアノヴァラ県アルメノ市から池田SGI会長に「名誉市民」の称号
 ならびに「特別顕彰の記念盾」が贈られた。
 授与式は、創価学会創立記念日の18日
 18 : 30よりアルメノ市の 市長・副市長と
 全市議会議員とイタリアSGIの代表らが出席
 バッジョ選手も出席し
 「このような素晴らしい式典に参加することができ本当に
 嬉しく思います」と述べる
 2000年1月23日
 名波浩セリエA初ゴール・日本人3人目
 第18節ウディネーゼVSヴェネツィア戦にて。 試合には敗退
 2月28日 - 33歳
 スペイン - リーガ・エスパニョーラにて、城彰ニ・日本人初ゴール
 その後もゴールを決め2ゴールとしチームの勝利に大きく貢献する
 4月25日
 FIFA主催 ボスニア・ヘルツェゴビナで行われた親善試合
 ボスニア代表 VS FIFAワールド・スターに出場
 両チームで唯一の得点をPKで決め勝利する
 5月18日
 コッパ・イタリア決勝 ラッツィオVSインテル
 2試合の合計でラッツィオの優勝
 5月23日
 ガゼッタ・デッロ・スポルト紙 採点で10点 満点獲得
 セリエA・4位決定 プレーオフ
 (来期UEFAチャンピオンズ・リーグ出場権)
 インテルVSパルマ戦で2ゴールを決める
 
2001年8月15日追加
 モラッティ会長 ( と自分 ) への2ゴ―ル
 辛い仕打ちにあいながらも最後に、インテルへ自分の足跡を
 残す事が出来た」
 EURO2000のイタリア代表に選出されず
 
2001年8月15日追加
 「貴重な2シ―ズンだった。 高いレベルで闘えた
 ただ、クラブがシモ―ニ監督を解任してチ―ム内がおかしくなった
 リッピ・インテルでの1年間は悲劇的だった
 いろいろ試みたが、だめだった
 精神的な暴力に耐えながら
 自身のプロ意識を立証できたと思っている
 まだ、言いたいことはあるが言うべき時期ではないので
 言わにいようにしている
 リッピは、あらゆる企てをしてきた、でも私は障害を乗り越えた」
 5月25日  
 ローマで開催された、中東和平への友好試合に中田選手等と共に出場する
 6月30日をもって、インテルとの契約期間満了
 2002年日韓共催のW杯出場へ向けて、さらなる出場機会を求め
 リッピ監督率いるインテルからの移籍を表明
 7月20日
 サマーバカンスから帰り、インテル会長のマッシモ・モラッティ氏と会談
 モラッティ氏は契約を更新しなかった理由を
 リッピ監督がハッジョを必要としていない為と説明した
 しかし、インテル側はバッジョとの関係を完全に断ちきるつもりはなく
 現役引退後は、インテルの役員として就任して欲しいとの要請を受ける
 インテル側は、バッジョの絶大な人気を手放すつもりはなく
 現役引退後もチームの為に役立てたいと考えていた
 その為、他チームへレンタル移籍を希望した
 バッジョは、新しいチームを探しつづける中
 フィジカル・トレーナーのエンリケ・ミゲル氏と共に
 故郷のカルドーニョでトレーニングを続けた
 8月17日 
 FIFA主催 フランス代表 VS FIFAワールド・スターに中田選手等と共に出場
 試合は 5-1 でフランス代表の勝利で終わるが、PKで1得点をあげる
 移籍先として、ドイツのバイヤー・レバークーゼン&ボルシシア・ドルトムント   
 スペインのバルセロナ&イングランド&トルコのガラタサライ ( 年棒100億リラ!! )
 MLS&Jリーグなどのチームからオファーが届く
 イタリア国内では
 ウディネーゼ&ナポリ&レッジーナ&ヴィチェンツァ等の名前が上がる
 ウディネーゼは、年棒と若手主体のチーム編成との理由で・・
 ナポリは、ゼ―マン監督がバッジョ獲得を望まず・・契約には至らなかった
 レッジーナは、バッジョ獲得を熱望したがバッジョ側が故郷カルドーニョから
 遠すぎるとの理由で否定する。 
 バッジョは、大切な家族と過ごす時間を少しでも多く持ちたいの為、
 また、2002年日韓共催W杯に出場を目指す為アズーリ復帰にはイタリア国内に
 留まった方が有利との理由で、カルドーニョからそう遠くないチームを希望する
 バッジョのカルドーニョのミニ・グラウンドでの孤独な練習の日々は続く・・。